「要援護者を救えるか」は災害時に共通する課題ですが、原発事故の場合は現場に近づくことを恐れる人が多いので、大変困難な問題になりました。この経験から、未来に向けて私たちは何を学べるでしょうか。
双葉病院(大熊町)
第一原発から4.5kmにある双葉病院では避難により45人の患者がなくなりました。
事実関係
”双葉病院事件の真相 当事者医師語る”でgoogle検索すれば病院側の詳しい説明が見つかります。それによると…
- 3月11日に病院内にいた338人のうち、第一陣が3月12日(209人)に避難
- 第二陣(34人)が3月14日に、第三陣(90人)が3月15日に自衛隊によって救出
- 3月15日朝に自衛隊が来たとき医師・病院スタッフはいなかったが、それは14日の夜に警察に避難を促されたから
- 病院院内では、13日夜から14日未明までに3人、14日から15日に1人が死亡し、認知症の患者1人が行方不明になった
- 第二陣と第三陣は重篤患者をバス等で遠距離まで運んだため多くの患者が死亡し、院内での死亡4人を含め、死者数は6月まで45人に上った。
- 病院内で死亡した4人は4月に搬出された。
誤報問題
双葉病院について「院長が患者を置き去りにした」と報道されたことに対し、病院や医療関係者から「誤報」だとの主張がなされています。3月15日の朝、自衛隊が90人の救助をはじめたとき病院関係者はいなかったと県が説明したこと、それを「置き去り」と報道したことを誤報だとしています。
参考情報
サンライトおおくま(大熊町)
原発から2kmにある特別養護老人ホーム「サンライトおおくま」では90人の入所者がいましたが、11日夜に3km圏内避難指示に従って町のマイクロバスなどで町内保健センターに避難し、翌12日、避難指示が10km圏内に拡大したのに伴い茨城交通のバスなどで田村市船引小学校、14日にデンソー工場へと避難しました。その後、避難所が寝たきり入所者に厳しい環境であることを心配した県内16の福祉施設が手をあげてくれて、入所者は各施設に入ることができました。
双葉厚生病院(双葉町)
震災翌日、寝たきりの患者と医師、看護師など100人余りが避難用のヘリが到着する双葉高校に移動しました。その直後1号機が水素爆発。放射性物質を含む原発建屋の資材が高校のグラウンドにも舞い落ちました。2時間後、双発ヘリが到着しましたが、地域住民も殺到したため、病院関係者など56人が乗りきれずに高校で一夜を過ごしました。翌日、ヘリで避難しましたが、避難先の男女共生センターには医療設備はなく、椅子を逆さまにして点滴台にしホールに患者を寝かせるしかありませんでした。患者の受け入れ先確保に苦労し、結局、この避難により7人の患者が亡くなりました。
救援医師の戦い
広島、長崎、チェルノブイリ、東海村(JOC事故)の経験と知識を持つ医師が、核事故対策の経験のない福島の医師を支援し、福島救援のため原発事故に立ち向かいました。NHKのETV特集、BSスペシャル、NHK Worldでその事実を伝える番組が放送されました。ETV特集はオンデマンドで、NHK WorldはYoutubeで見ることができます。
彼らの懸命の努力が福島と日本を救いました。広島から救援に駆けつけた谷川医師は今もふたば医療センターの所長としてこの地域の医療を支えています。
上の写真左端の山口医師は東京消防庁ハイパーレスキュー隊を導き3号機への放水を成功させました。原発に向かう途中、ご子息に「家族を頼む」とメールしたところ、「死の覚悟を持って福島の地に赴かんとする父を誇りに思います」「ご存分の働きを」と返信が来たエピソードを語っています。山口医師だけでなく、多くの人が死の覚悟をもって事故対応にあたったのです。