You are currently viewing 汚染はどう広がったか

汚染はどう広がったか

汚染がどう広がったか、政府や東電がデータを隠しているので、よくわからないという話しを聞くことがありますが、データは公開されています。その解釈を以下に示してみます。

県内七方部+飯舘村の計測結果

震災後、県は福島県内の7つの地方振興局などで手持ち式のサーベイメーターで空間放射線量を測定しました。そのデータ飯舘村の測定結果をグラフ化すると次のようになります。急激に上昇下降する汚染通過型と、急上昇し緩く下降する定着型の2パターンが読み取れます。いわき市と福島市はともに最高で24μSv/hまで上昇しましたが、いわき市はすぐ低減する通過型で、福島市は高線量が長引く定着型でした。

汚染の定着と通過を分ける理由

放射線量の急激な上昇と低減(通過型)が生じる理由としては、放射性物質の雲(プルーム)が頭上を通過し一時的に照射したもののあまり降下しなかったこと、またはプルームが主にキセノン(Xe-133)などのガスでできていてすぐに拡散したためと考えられます。他方、定着型の汚染が生じる理由はセシウム(Cs-134/137)などの粒上の放射性物質が地表に降下(Fallout)し、土壌に定着して長く照射を続けたためと考えられます。

回収モニタリングポスト(MP)

第一原発周辺の25のモニタリングポスト(MP)は通信機能を失い国や県にデータ送信できませんでしたが、2012年9月までに県が除染回収して、内部に残っていたデータをグラフ化公表しました。それを見ても定着型と通過型が見てとれます。縦軸は1-10-100-1000と上昇する対数目盛ですからご注意ください。

汚染の広がり方

これらを読み解くと、現在も残る汚染が次のようなタイミングと方向で広がったと見られます。

最初の汚染は3月12日の15時ごろ。上羽鳥MPで最高値1500μSv/hを記録しました。しかし、これはすぐ低減しています。定着した汚染で最初のものは3月12日の17時ごろ、双葉町の双葉厚生病院のあたりの18新山MPを経て浪江駅近くの22浪江MPを通り南相馬市小高区方面へ流れました。上図右で赤く短い線が残っています。この日は雨や雪は降らなかったものの、定着が生じました。次の定着汚染は15日昼~午後で、11時ごろ川内村割山峠で44μSv/hが記録され、風の変化にあわせて14時ごろ田村市経由で本宮市に抜け、16時ごろから雨や雪が降りだし飯舘村や浪江町津島が汚染され、18時に福島市で24μSv/hを記録するに至りました。

15日未明0時過ぎと16日未明0時過ぎには南に放出がありましたが定着はしませんでした。いずれも未明の放出だったため1Fから南のいわき方面の住民で直撃を受けた人は少ないと思われます。

21日午後にはいわきや関東へ向け放出され関東圏での汚染を形作りました(定着型)。

人力のモニタリング

県や日本原子力研究開発機構(JAEA)の職員がさーべーメーターやモニタリングカーで計測したデータが残っています(下図)。

福島県職員のモニタリング
原子力研究開発機構JAEAのモニタリングカー走行サーベイ

モニタリングポストのデータ、JAEAや福島県のデータ、及び2011年12月の航空機モニタリングの結果を下の地図にまとめました。

教訓1:汚染は音もなく前触れもなくやってくる・・・今も残る汚染は爆発やベントで噴出したものではない

当時、汚染は、来ると予期したときに来ず、油断したときにやってきました。

1号機のベント指示が12日の9時に出たとき、これにより計画的な汚染があるのかと身構えましたが、ベントはなかなか実現しませんでした。もうベントはないかと思ったら14時すぎに突如ベントが成功しました。これで爆発はないと一安心した約1時間後に1号機が水素爆発しました。当然、激しい汚染が来ると思いましたが変化はありませんでした。そんな中、12日17時ごろ、今も形跡が残るような汚染が予兆も音もなく北に流れました。20時には南相馬市の県合同庁舎の職員が汚染を探知しました。

14日20時、米軍が原発50マイル以遠に逃げ、自衛隊や警察も原発近くから退避しました。危機をじりじりと間近に感じながら夜を明かすと朝6時に2号機サプレッションチャンバーあたりで爆発音がありました。4号機の水素爆発も立て続けにあり、今度こそ汚染が来ると身構えましたが、変化はありませんでした。前夜からの緊張が解け、自衛隊も原発近くに戻って、多くの人が災害対応に従事しました。そんな中、15日15時過ぎに北西に最大の汚染が雨や雪とともに降り、現在の汚染の大半を形作りました。福島市では15日14時で0.05μSv/hだったのが18時過ぎには24μSv/hに達しました。

現在も残る甚大な汚染はベントや爆発のタイミングでは来ませんでした。時間差をもって油断したころに音もなく予兆もなく来たのです。

3月12日夕方の汚染はどこへ広がったか

3月12日午後5時ごろに原発の北方向が汚染されたとき、まだ避難の途中だった人たちがいたので、その詳細データは重要です。また、このときのプルームは放射性ヨウ素の割合が高かったという説があるので、甲状腺がんリスクを考える上でも重要です。

国会図書館に残されたデータにある緊急モニタリングを見ると、3月13日、福島県職員のモニタリングチームが午前11:55に南相馬市小高区大富で、12:10に原町区横川ダム入口で30μSv/h超(計測限界)の高線量を発見しています。その後、原子力開発機構JAEAがモニタリングカーでその地点を含む一帯を走行サーベイした結果を詳細に見ると、双葉町、原町区滝(横川ダム入口)、浪江町加倉などで30μSv/hを超えています。双葉町新山MP、双葉町寺内前、浪江町加倉、南相馬市小高区大富、横川ダム入口は1Fから直線上にありますので(下のマップ参照)、12日17時に双葉町新山MPで900μSv/hを記録した汚染がこの経路を辿ったと想像されます

このとき昼曽根は7.78μSv/h、東北電力昼曽根水力発電所は11.3μSv/hですから、12日の汚染は浪江町民の多くが避難していた津島地区中心部へはほとんど到達していないと考えられます。同地区は山田MPで記録された汚染が到達した15日午後と16日未明に汚染されました。浪江町は15日の早朝に津島地区からの再避難をはじめましたので、彼らの判断は結果として誤りでなかったと解されます。

3月12日14時(ベント後・爆発前)の上羽鳥の汚染について

上羽鳥MPで12日14-15時の1時間平均で1590μSv/h、14時40分40秒20秒平均で4,613μSv/hを記録しています。この事故で県モニタリングポストが計測した最大値です。24時間後には40μSv/hまで低減する通過型の汚染で12月の航空機モニタリングでは形跡が残っていませんし、現在、上羽鳥は双葉町内ではむしろ低線量エリアに属します。この汚染はどこからきたのでしょうか。

1号機ベントが14:30、爆発が15:36ですから、ベント由来の可能性があります。13日にJAEAが国道6号の双葉・大熊町堺で計測した30μSv/h超は上羽鳥MPと1号機排気筒を結ぶ直線上にあるので、これらは一つの放出による汚染かもしれません。この汚染は、すぐ近くの山田のMPではほぼ全く記録されていません(山田では同時刻に20秒だけNaIシンチレーションが反応し、0.8μSv/hから1.6μSv/hに上昇して、20秒後に0.8μSv/hにました)。その延長線上の堰守で13日30μSv/hが記録されましたが、昼曽根では8μSv/hなので、この汚染は遠くへは行ってないようです。事故後最大級の汚染(ベントの汚染)は細い線のように流れて、その後形跡をほとんど消したと言っていいと考えます。同日17時の汚染が汚染図に一本線を残したのと比べると明らかな違いです。ただ、この時間の風は北西と真北の間で揺らいでいたので、ベント由来の高レベルの汚染を受けたのが他にもありうることに留意する必要があります。